道で猫とすれちがうと色んな妄想をする。
野良猫は、空腹を覚えると、あちこちの家を効率よくわたり歩いて、ごはんにありつくのだろうか?
あちらの家では「ジュリー」こちらの家では「もも」むこうの家では「しげるくん」なんて呼ばれていたりするのだろうか?
たまにはスリスリしながら、こきみよく返事なんかして、抱っこされたりしているのかな?
それぞれのお宅や出会う人間によって、さまざまな名前で呼ばれたとしても猫が迷うことはないだろうな。
なぜって、猫を名前で呼ぶのは人間が勝手にしていることで、猫には関係ないからだ。
彼らには名前はない。名前なんてカテゴリーの窮屈な枠を優に飛び越えた次元に猫たちは住んでいるのだから。
けれどもメニューはその家ごとにちがうものが出されるから猫だって迷う。彼らは、くれる家とくれない家も熟知している。
タイのお刺身、ニボシ。たまにはカリカリだったり、モンプチだったりね。
ごはんはいつもバイキングスタイルだからよりどりみどり。
食べたいものを食べたい時に食べたい分だけ選んで食べて、いらないものは欲しがらない。
目尻をさげて普段より3オクターブ高い声で話しかけてくる暑苦しいおばちゃんやおじさんも彼らにとっては大事なパトロン。
猫たちもその辺はよく心得ており、テキトーに「みゃう」なぞと愛想のよい声なんか出してみる。
るるるる…ノドを鳴らしてみたり、シッポをからみつけたりサービスすると人間は舞い上がる。
それもこれもバイキングにありつくため。ちゃっかりしている。
平安時代には通い夫なんて慣わしがあったが、まさに「かげろう日記」ではないか?
猫を待つ身は、いつくるかわからぬ夫を待ちわびて、枕をぬらす妻のそれと同じ気分なのではないかしら?
嘆きつつ
ひとり寝る夜のあくるまは
いかにひさしきものとかは知る
右大将道綱母
訳「あなたを待ち焦がれてひとりぽっちで寝る夜が一体どんなものなのか?あなたはきっと知らないでしょうね。」と、まあこんな感じだろうか?
人間は、とびきりおいしいごはんの支度をしながら、たまに窓の外へ目をやり、風の音にも敏感になり、過ぎる影を猫と見まごう。ちがうとわかると、はぁ~と深いためいきをつく。今頃どこのお宅で遊んでいるのかしら?なんてヤキモチを妬きながら。実にせつない片思いだ。
たったひとときの猫の訪れを待ちわびて眠る。
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