知人が、長年連れ添ってきた猫が亡くなった。
わたしはその猫さんに一度も会ったことはないけれど、
その名前や存在を知ってからは、話を聞くにつけ、その人と話すにつけ、
いつも後ろに長いしっぽがパタリパタリとゆっくりと揺れていたのを思い出す。
確かにいた猫の存在。そして今も。これからもずっと。
もしも虹の橋でさすけに会ったらよろしくね。
謹んで、お悔やみ申し上げます。
エッセイ村松 友視・著「帰ってきたアブサン」
を最近になってやっと読んだ。
随分前から、この本の存在は知っていたのだが、それまでは、さすけの死の間際を
また思い出しそうで辛かったので、手が出せずにいた。
なぜってこの装丁のアブサンの絵が、あまりにさすけに似ていたからだ。
でもふいに先日、もうあれから1年たったので、気持ちを少しは整理しなきゃと、
思い切って買ってみることにしたのだった。
結果、やはりというか…号泣(^^;)
「愛猫が亡くなって悲しむ姿を見て「人間の子供が亡くなったわけでもあるまいに。
へえ、猫がねぇ…」という世間の呆れたような冷たい反応が、猫の死を悲しんでいる
本人はおろか、亡くなった猫にまで向けられるのは耐えられないので気丈に
ふるまった。世間の冷たい視線や言葉から猫を守らねば。その奇異な視線を
何としてもそらせたい。」といった趣旨の話を作者である村松さんがされていた。
まさにわたしがそんな心理だったのでビックリしてしまった。
たかが猫。されど猫。人間よりよっぽど純粋で、したたかで賢い彼ら。
あの絶妙な間合い。人間同士では中々できない芸当をさらっとやってのける彼ら。
粋で小さくて丸くてあたたかくて。シニカルでユーモアがあって、哀愁すら漂う彼ら。
背中で語れる動物って、犬のほかには猫しかあるまい。とわたしは思っている。
その純粋な思いや思い出を猫と暮らしたこともなく、猫の魅力を知らない人に
軽い気持ちで簡単に「でもペットでしょ?」などと簡単にぞんざいに割り切られたくない。
バカになぞされたくない。バカになぞさせるもんか!とずーっと思ってきた。
これはもう、猫と一緒に暮らした人にしかわからない。
猫に愛情をそそいで、猫を亡くした当人たちにしかわからない。
彼らはペット以上の存在なのだ。
存在を知っている猫が亡くなることは本当に悲しい。
あの雪の3月の雪の朝、車に轢かれて亡くなった近所の小さな三毛猫を
思い出す。わたしや夫が呼びかけると「にゃあ!」と元気に返事をしてくれた
気前のいい猫だった。まだ小さくて1歳にもなっていなかっただろうに。
彼女の亡骸にどんどん雪がつもると、近所の人が保健所に連絡して、彼女は
発砲スチロールの箱に入れられて、その発砲スチロールの上に雪が山積していた。
それを思い出すたび、胸か締め付けられる。
それから初夏の朝方、ミィーミィー鳴いていた捨て猫の黒猫の赤ちゃん。
夜中に誰かに捨てられたのだろう。1頭でウロウロしながら鳴いていた。
夫と相談してウチの子として迎えようか?と考えたが、その頃はさすけがいたので
一緒に暮らすのは難しく、断腸の思いで諦めたのだった。
彼女を救ってやれなかったことが悔やまれる。あのつぶらな瞳が今でも頭から
離れない。その子のその後はわからないが、たぶん近くの川に落ちて亡くなった
か、カラスにやられてしまっただろうと推測される。翌日には声が弱くなり、
翌々日には台風がきていたから絶望的だった。
近所の子供たちが「かわいいー飼いたい!」と親に言っていたのを見た
たので、もしかしたら、その家に貰われて幸せに成長しているかも知れないが。
外で黒猫を見かけると、もしかしたらあの子かも?
と思わずにはいられない。
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